このあたりで自己紹介を兼ねて僕のことを少しお話しさせてください。
僕が父の会社を継ごうと決めたのは、高校生の時に父に連れられて、東日本大震災の被災地を訪れた時のことでした。
実はそれまでの僕は教師になりたいと思っていて、父の会社を継ぐことはまったく考えていませんでしたし、父も僕が会社を継ぐことは一切想定していなかったと思います。父がなぜあの時、被災地を案内したのか?それは謎ですが、どの大学に進むかを悩んでいる僕に何かを見せたかったのかもしれません。
地震発生から3年くらいになる被災地、宮城県名取市を父と二人で訪れたのですが、3年も経っているはずなのに何も再建されていない、そして建物も道路標識も何もない町を見て、「こうも簡単にすべてがなくなってしまうのか…」と呆然としたことを思い出します。
その際、現地で被災した子どもたちと接する機会に恵まれたのですが、その会というのが、被災した子どもたちが、”これからの夢や思いを大きな画用紙に書くみたいなイベント” だったんですね。そしてその時、僕は子どもたちが書いている絵に強い衝撃を受けたのでした。
そこにいる全員の子たちは決まって、家族と一緒にいる様を書いていたんです。まずはそこに驚いたのですが、その家族の横には津波を防ぐための大きな壁が書かれていたり、その家族が高台にいる様子を書いている子がいたりと、一見、楽しそうな絵を書いているのですが、絵には明らかに心におった傷というか、もう二度と自分たちの居場所をなくしたくないという切なる思いがそこに込められていることに、僕の心は大きく揺さぶられました。
一瞬にして家を失った子どもたちが、どれほど精神的なショックを受けているのか。子どもたちにとって自分の住んでいた家が、どれだけ精神的に大きな支えだったのか。高校生だった僕にとってもその絵は、何か訴えかけえてくるようなものを感じたんです。
それは僕だけではなく、被災されたご両親さんや大人たちも同じで、絵を見て同じように涙を流し、「こんなところで立ち止まっていていけない!」と奮起されている方がいたりして、子どもから大人が力をもらい、大人たちが子どもも守ろうとする様子から、家族の必要性がわかった気がしましたし、それは家をなくしてはじめて思い知らされることなんだということを痛感したのでした。
この時、父が建築業という仕事に携わっていること、その息子として僕が生まれたことに何か運命を感じたんですね。誰かの家を建てて、そこに住む家族のための場所を作ること。その場所をなくすのではなく、作ることができる仕事はすごい仕事だ。当時はもっと単純に、目の前にいる子たちのための家を建ててあげたい、と単純にそう思いました。
子どもたちが書いた絵は純粋で、そこには大人たちが忘れている大事なものが表されている。家族とはなんのためにあるのか?家族にとって家とはどんな役割を果たしているのか?子どもたち全員が絵の中で表していたもの、それは、家族が手を繋いで笑っていて、それでいて何かに守られている空間。
これが家族にとっての家のあるべき姿であり、そこに住む家族はお互いに恩恵を受けあいながら生きている。僕にはそんな空間を作る責務があるような気がして、この時僕は、父の会社を継ぎ、建築業に携わっていくことを決めたのです。
被災地から帰ってきた僕は、建築学科の大学を選択します。生き方の方向転換です。父には理解不能だったと思います。教師を目指していたはずの息子がいきなり建築学科に行ったと思ったら数年後、自分の会社に入ってきたわけですからね。
その後、僕は結婚し子どもができました。父親となった僕は自分の家族のための家を作りたいと思うようになったのですが、それを考えた時、どんな家が理想なのか?被災地を訪れた経験から余計にわからなくなっていったんですよね。
たくさんの家を見てきたし、建築の詳しい勉強もしてきて、知識もあるはずなのですが、常にこんなことが頭をよぎるのです。「ちょっと待てよ。これって本当に僕たちの家に必要なのか?」そしてそう思うたびに、あの子どもたちの絵が思い返されます。「僕が建てようとしている家には、あの絵で描かれているような空間はあるのか?」と決まって比べてしまうのです。
「誰かの家を建てる側の人間として、自分の理想の家でないものを建てることはできない。」「本質とずれた家は建てたくない。そしてその本質はあの絵の中にあるような気がする…。」「僕は自分の家族のためにそういう家を建てなければいけない。」そんな呪縛が僕を襲って、そうなればなるほど、さらに建てるべき家がわからなくなる…、という悪循環に陥っていたのが当時の僕でしたね。まさに家づくりに踊らされていた…。財前様ご主人とよく似ています。
そして僕は一度、家を建てるのを諦めています。「自分の理想の家なんてない…」財前様のご主人のように「住めればいいや。なんでもいいから建てよう」とはなりませんでしたが、このままアパート生活でもいいかな、そんなことを思っていた時でしたね…。父が突然、僕ら家族を新潟に連れて行ってくれたのでした。そしてそこに待っていたのが、例の家の中の気圧をコントロールするシステムが実装されたモデル棟だったんです。
その家に入って数分で娘が寝てしまったということは先述の通りです。この時、すやすや寝る娘を見て、僕に稲妻が走ります。僕の頭の中にと ”ある風景” がフラッシュバックしたのです。
僕の頭にフラッシュバックした風景、それは、父や母、姉妹と過ごした幼少期の秋の風景でした。そこには木や森があって、金木犀の香りが漂っていて、家族が笑顔で過ごしている。
そしてその風景はどこかあの、被災地でみた子どもたちが書いた絵とも通じるところがあります。一瞬で僕の脳裏には一枚の絵が完成した感じになり、その時、自分が建てたかった家の謎が解明された感じになったんですね。
「僕の家の中を一年中秋にできたら、子どもたちにとっても僕にとってもそして妻にとっても安らぎの場所になるはずだ!自分が幼少期から求めてきた理想の家はこれだったのか!」
これまで見てきた家にはない、包まれるような安心感と守られているような感覚。壁や高台ではなく、家が家族を守ってくれている空間がそこにはある。
「お前は誰かのためのそんな家を建てなさい!」と言われている気がしました。
「あの絵は、これを教えるためだったか…。」
被災地で見た子どもたちの絵は、僕に深い悩みを与え、建てたい家とやりたい仕事を教えてくれることになりました。建築に携わる者として、「家を建てる意味とは何か?お前が建てるべき家とは何か?」を問いかけ、そしてそれを探すための旅を授けてくれたのが被災地でのあの出来事だった気がします。
それが僕にとっては ”秋を実現する家” であり、その家はおそらくですが、子どもたちのためだけでなく、そこに住む僕ら親にとってもプラスの力を与えてくれるものになる。被災地で子どもたちが書いた絵に、大人たちが勇気をもらっていたように。そんな役割を果たす家が建てたい。誰かにそんな家を建ててあげたい。そんな経緯で今僕は「一年中秋を実現する家」を建てています。
と、気づけば長くなってしまいましたが、これが僕のこれまでの経緯になります。第三章では、”一戸建てでしか実現できないすごいこと” についてお話しします。ぜひお付き合いください。
その家に入って数分で娘が寝てしまったということは先述の通りです。この時、すやすや寝る娘を見て、僕に稲妻が走ります。僕の頭の中にと ”ある風景” がフラッシュバックしたのです。
僕の頭にフラッシュバックした風景、それは、父や母、姉妹と過ごした幼少期の秋の風景でした。そこには木や森があって、金木犀の香りが漂っていて、家族が笑顔で過ごしている。
そしてその風景はどこかあの、被災地でみた子どもたちが書いた絵とも通じるところがあります。一瞬で僕の脳裏には一枚の絵が完成した感じになり、その時、自分が建てたかった家の謎が解明された感じになったんですね。
「僕の家の中を一年中秋にできたら、子どもたちにとっても僕にとってもそして妻にとっても安らぎの場所になるはずだ!自分が幼少期から求めてきた理想の家はこれだったのか!」
これまで見てきた家にはない、包まれるような安心感と守られているような感覚。壁や高台ではなく、家が家族を守ってくれている空間がそこにはある。
「お前は誰かのためのそんな家を建てなさい!」と言われている気がしました。
「あの絵は、これを教えるためだったか…。」
被災地で見た子どもたちの絵は、僕に深い悩みを与え、建てたい家とやりたい仕事を教えてくれることになりました。建築に携わる者として、「家を建てる意味とは何か?お前が建てるべき家とは何か?」を問いかけ、そしてそれを探すための旅を授けてくれたのが被災地でのあの出来事だった気がします。
それが僕にとっては ”秋を実現する家” であり、その家はおそらくですが、子どもたちのためだけでなく、そこに住む僕ら親にとってもプラスの力を与えてくれるものになる。被災地で子どもたちが書いた絵に、大人たちが勇気をもらっていたように。そんな役割を果たす家が建てたい。誰かにそんな家を建ててあげたい。そんな経緯で今僕は「一年中秋を実現する家」を建てています。
と、気づけば長くなってしまいましたが、これが僕のこれまでの経緯になります。第三章では、”一戸建てでしか実現できないすごいこと” についてお話しします。ぜひお付き合いください。
今すぐでも読めます
DAY2は明日、届きますが、今すぐ読みたい方は先読みもできます。以下の簡単なアンケートを提出して今すぐ読んでみてください。