東日本大震災の被災地を訪れて以来、僕は建築の道に進むことを決め、自分の人生の方向性を変えたことは前回のコラムでお話しした通りです。
その後僕は、建築系の大学に進んだのですが、大学在学中の3年生の頃には、卒業とともに父の会社に入社しようと思うようになっていました。そしてその意思をなんとなく父に言うと、「そんなのは絶対許さない!」とすごい勢いで反対されてしまいます。ただ、この時の僕には、反対する意味がわからず…、ふてくされた僕は、ふらっと父の会社の建築現場に足を運んでみることにしたのでした。
そこには、父の建てる家を長らく請け負ってくれている大工の棟梁さんがいて、その方に「父の会社を継ぎたいと思うんですけど、入らしてくれないんでどうしたらいいですか?」と聞くと、なんとその方も「そりゃそうだ!親父さんが正解だよ!」と豪快に笑うのです。しかしその時、その棟梁さんは僕に、父の会社を継ぐなら、僕が選択すべき方向性を示してくれました。
彼が言うには良い家を建てるためには「監督」が一番重要だと言うのです。いくら良い大工がいたとしても、そこに良い監督がいないと、職人さん個人個人が好きなように仕事をしてしまい、結果、各所がバラバラで統一性がない家が出来上がること。逆に良い職人を良い監督が管理すれば自然とすごい家が出来上がることを説いてくれたのでした。
棟梁さんは正直、とても怖い方ではあったのですが、その時は、僕に対して非常に温かく親身になってアドバイスをくれたんですね。今思えばこの方こそ、僕の人生にとってのキーマンの方だったように思います。
“父の会社に入る前に働くための場所としてどこで働くか?“棟梁さんの助言が正しいと思った僕は、すぐに現場監督をさせてくれる会社を探すことにしました。そしたらあるものですね。「監督募集!」と書かれた、とある工務店の求人募集を見つけ、その会社に入社することを決めました。
入社してすぐ、僕の歓迎会が開かれたのですが、そこには営業マンや現場監督、その他の従業員の人たちがいたのですが、その場で僕はいきなり、「すぐに現場監督をやらせてもらえなければ会社を辞めます!現場監督として一番になるためにここに来たんで!」と啖呵を切ります。すると周りは失笑。「おうおう、ヤバい奴が来たぞ…。」と言わんがばかりの雰囲気になったのですが、そこにいた現場監督の1人が「お前、今の若い奴っぽくなくて面白いな。気に入った。明日から俺について来い!監督見習いとしてお前を使ってやる!」といった具合になり、結果的に僕は入社してすぐに見習いとして現場に携わる仕事をさせてもらうことになったのでした。
現場に出ると、僕の想像していたものとは違って職人さんたちがやけにフレンドリーで、「なんで?」とか思ったのですが、実は職人さんたちは全員、父のことを知っていて、それでその息子の僕ということで、最初から好意的に接してくださっていたということは、後からわかったことです。
職人さんたちは僕に、それこそ現場のいろはから、監督としてどんな仕事をすべきか?を、僕に叩き込んでくれました。もちろんそこには厳しさはあるのですが、でもどこか父の会社のあの棟梁さんのようにあたたかく親身になって僕に仕事を教えてくれたように思います。今でもほんと感謝しかありません。
職人さんたちの助力により僕は、入社半年という異例の早さで現場監督を任され、すぐに会社で一番の現場数を任されるポジションになり、監督として、ひたすら現場を回しました。
でもここでもやはり、相変わらず周りから変な奴と認識されるのですが、だったら「やれるだけとことんやってやれ!」とばかりに多くの現場をひたすらこなし、結局、2年足らずの間に、15棟近くの現場に携わらせていただくことができました。
「みんなが3年かけてやるなら自分は1年で!」そんな思いで駆け抜けた、周りに変な奴と思われ続けながら過ごした、あっという間の2年間でしたが、現場の職人さんたちには、たいへん可愛がってもらい、「現場監督とはどうあるべきか?」短期間のうちに大事なことを身につけることができた濃い時間であり、そして同時に、この仕事は僕に向いているということを実感できたのでした。
結局、会社は2年ほどで辞め、僕はエーテルに戻ることを決めたのですが、その理由は、僕の担当していた現場の職人さんに、エーテルの家も作っている職人さんがいて、その方が「エーテルに秀弥くんのような監督がいればなお最高なのに。」と言われたからです。
「時は来た!」と思いましたね。たった2年足らずで父の会社にいきなり戻ったので、父も驚いていましたが、外を経験してきた手前、父も僕を会社に入れないわけにはいきません。そんな経緯で、エーテルではすぐさま現場監督となり今に至ります。
エーテルに入ってまず感じたのは、ここの職人さんたちのレベルの高さです。父はこれまで賃貸の家を中心にかなりの棟数を建ててきたのですが、たぶんですが、父は現場で、かなりの無理難題を職人さんたちに要求していたのだと想像できました。
専門的になっちゃいますが、賃貸の家なのに吹き付け断熱を採用していたり、狭小地に建てる難しい家ばかりを建ててきたりと…、厳しい現場をこなしてきたことによって結果的に、エーテルは、百戦錬磨の職人さんたちだけが残る、非常にレベルの高い職人さんの精鋭部隊の現場になっていたのです。
そんな職人さんを束ねる監督として、「この会社の施工レベルの高さを生かした家を建てたい。そんな家をエーテルのメインの商品にしたい。」
いつの頃からか、現場を担当しながら考えるようになっていったのだと思います。
「うちの職人さんたちであれば小細工なしで基本住宅性能を出せる!この素晴らしい技術をどうにか生かすことはできないか?」
そんな時に出会ったのが、あの新潟で出会った空調管理システムです。このシステムをしっかりと稼働させるには、家自体が持つ基本住宅性能の高さが要求されます。もうこのシステムこそエーテルが扱うしかないと思いましたね。
このシステムの導入を決め、初めてこのシステムを搭載した家を監督した時、完成まじかの現場に突然、いきなり住宅の性能を測定する会社の人たちが入ってくるという、ちょっとした事件が起きました。
「え?誰この人たち?」現場の職人さんもあっけとられる中、勝手に気密性の測定が開始されました。後からわかったのですが、父が勝手にこの現場の性能測定を依頼したようです。
普通、住宅の気密性を測定する時は準備をするんです。気密テープを貼ってみたり、コーキングを打ってみたり、それが普通。なのに今からこの家は、まったくの抜き打ちで検査が行われることに…。
しかししかし、測定が終わって上がってきた結果はなんとC値0.6。気密性が高いマンションで1.0とされている性能値を余裕で上回る数値を叩き出したのをみた時、エーテルの職人さんたちの技術の高さを改めて認識し「この会社に戻ってきてよかった!」と改めて思いましたね。
ちなみにその家にコーキングだけを追加で施して、再度測定したら0.4の値がでました。気密テープなど、さらに数値を高めることまでしたらどんな数値がでるか予想もつきません。まさに僕の現場の職人さんたちが作る家は、魔法瓶の家です。
良い職人さんたちを束ねて「良い家を作る」という同じ目標に向かって作ると勝手に良い家はできる(基本住宅性能値は良くなる)。僕を監督の道に導いてくれたあの大工の棟梁さんが言っていたことは本当でした。
今、そんな現場を仕切れていることに幸せを感じますし、この凄さを住む人がダイレクトに感じるような家を建てたいと、どこかでずっと思ってきて行き着いたのが今の「一年中秋を実現する家」なんだとしみじみと感じるわけです。
あ、すみません、昔を思い返していたら、ついつい長くなってしまいました。さて、次はいよいよ最終章です。実在するモデルが存在する財前様の家づくりのその後はどうなったか、ぜひ最後までお付き合い下さいませ。
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